モノと記号
最近、「記号」に興味を持っています。
きっかけは、何かの本で、円と放射状に広がるいくつかの線で表現された太陽について、
「あれは太陽の絵ではなくて記号だ 」といった考えを読んだことでした。確かにそのたぐい
の絵は実際の太陽よりも天気予報の晴れマークに近く、たとえば子供の絵日記でスイカ
割りの風景の中によくあるそれは「この日は晴れ」または「明るく楽しい野外」という記号の
ようなものだし、星の形は「キラキラ」という記号として新品であるもの、目眩している頭、
昔の少女漫画の瞳 などに使われているように思います。
そうしてみると、見方によっては身の回りのもろもろには多くの記号が満ちています。
言葉という記号、涙やスマイルといった記号、お辞儀や拍手という記号、メロディーだって
終わりには終わりらしいかたちがあり、したがって「そろそろおわるよ」という記号もきっとあり
、ここは記号、ここはモノと無意識に区別して演奏しているのかも知れません。芸能の中
にある記号的な要素は別に「型(かた)」と呼ぶのかも知れませんが。
ヒトがモノを見るとき、モノには意味が生まれ、多くのヒトにとって共通した意味を持つモノ
は記号となるのでしょうか、いやいや市民権は得ていないものの、ひっそりと私的な記号
というのもあるに違いない、そしてモノだと思っていても実は記号であったり、またその逆も
案外多いのかも知れない、けれどこんなこと、さしあたって真剣に考えなくてもいいではな
いか、などと電車の中で思う日々です。
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